アマ経験が無いのに突発的に天才肌な選手が出てくることがあります。まして、それが都市圏の大手ジムでなく一介の地方ジムから出てくると、判官贔屓のマニアの気持ちがくすぐられたりします。
ゼロ年代に表れた中広大悟と大場浩平には夢を見させられました。ボクマガのプッシュも結構ありましたしね。
まずは中広。当時、広島にある二つのプロ加盟ジムの一つである広島三栄ジムから突如として現れた俊英でした。
全日本新人王決勝ではのちの世界王者、河野公平にフルマーク。
白面の貴公子、高橋巧との無敗対決での勝利。
日本王者の内藤大助には1-2で惜敗ながらも検討。
世界挑戦こそ敵地タイでポンサクレックに完敗も株はそんなに落ちなかった。
再起後も有永、奈須、ヨシケンと当時の国内実力者を下し、08年12月には杉田純一郎との決定戦を制して日本王座戴冠。
三枝、本田、赤穂と強敵相手に3度防衛、当然、次のステージが注目されたが、赤穂戦の拳負傷のブランクもあり、暫定王者である佐藤洋太との統一戦に敗れ、王座陥落。
マルコム・ツニャカオへのOPBF挑戦も実らず、結果として日本以上ではあるものの東洋未満に終わってしまったのは残念。
攻防のバランスが良く、スピードの乗ったコンビネーション、当て勘に優れたカウンターには唸らされるものもあった。
しかしながら、あと1歩が届かなかったのは残念。前半にペースを取りながらも後半に相手の反撃を許して逃げ切るという試合が多かったのもOPBFより上の壁を突き破れなかった一因だったのかも知れない。
次いで大場。メイウェザーに憧れ、そのスタイルを模倣することで自分のスタイルを築き上げたという個性的な選手だった。
名古屋の新興ジムだったスペースK(のちの大一スペースK)から出てきた俊英はL字ガードをとりながら、本家張りのショルダー・ブロックを駆使しつつカウンターを狙うスタイルだったが、対戦相手が上になってくるに連れて被弾ももらう様になり、後にジム移籍なども相まってスタイル・チェンジを余儀なくされている。
やはり日本王座獲得までの勢いはあったが、それでもベテランの木嶋安雄には苦戦してた印象がある。日本王座戴冠後もV5の池原にはいい勝ち方をしてたが、V1の児玉卓郎、V2の川端賢樹にはダウンを奪われる等苦戦してる印象が強く、安定感に欠けるきらいがあった。
そしてOPBF挑戦に関してはバンタムで挑んだマルコム・ツニャカオには実質2敗(初戦は引き分けだったが)、Sバンタムでロリー松下にはまさに成す術なく惨敗とこちらも壁は超えられなかった。ロリー戦以降、二度目の日本王座獲得等もあったが、そこからのキャリアは本来の輝きからすると蛇足かも知れない。
中広、大場に共通するのは突発的に出てきた才能だったこともあり、ある一定以上のレベルに達すると地方ジムでは悲しいかな、そこから上のことは教えられないということだろう。
スパー相手にも事欠く現状、今以上に情報量が乏しい環境ではもっと上で花開くのが難しかったのかも知れない。当時では。
大場は真正に移籍したが、もし、もっと自由に行き来できる環境があるとして、今の寺地みたいに東京の大手ジムへ移籍してたらもっと違ったキャリアもあったかもしれないだろうと思う。
しかし、現役時代はあくまでも地元に拘ったうえでの支持を受けてたのも事実なのでもしかしたら、現実のキャリアが最適解なのかも知れない。